はじめまして。
玉穂木材工業株式会社 代表取締役の菅沼良将です。
このページでは、私、菅沼良将が
- どの様な半生を送ってきたのか。
- どの様な体験をして今があるのか。
- この会社をどうしたいのか。
などをお話させていただきます。
「私が目指す場所」
とても長い話になりますが、ぜひお付き合いしていただければ幸いです。
誕生
私は1966年4月に、菅沼家の長男として誕生しました。
父は玉穂木材工業株式会社(当時は有限会社)の社長(当時は専務)で、母は玉穂木材工業株式会社の事務をしていました。
私には姉が一人いて、私の誕生から2年後に弟が誕生しています。私の家族は、両親と子供3人、そしておばあさんとの6人家族でした。
玉穂木材工業株式会社は、昭和9年に私のおじいさんの兄が創業しました。そして、昭和23年4月に、法人化されました(当時は有限会社)。
おじいさんの兄は、玉穂木材工業を創業する前は、菅沼商店を経営していて、たわしなどを作っていたそうです。
玉穂木材工業有限会社は、昭和40年代までは製材工場として営業をしていましたが、昭和50年代に入ると建設業も行うようになり、製材業と建設業の二本立ての会社となりました。
私は小さいころからずっと、父が会社を経営していたので、「お前は大きくなったら、会社を継ぐんだぞ」と言われ続けていました。そんな環境で育った私は、小学校の卒業文集で将来の夢は「玉穂木材の社長」と書いていました(多分この時代の自営業の家は、みんなこんな感じだったと思います)。
小さい頃の私
私の誕生の話に戻りますと、私は菅沼家の待望の長男だったので、生まれた時はとても喜ばれたそうです。
小学校に上がるまでの私は、とても元気でヤンチャな子供で、野原を飛び回って遊ぶのが大好きでした。
小学校に上がってもそのヤンチャぶりは衰えず、特に生き物が大好きで、クワガタ・カブトムシ・カミキリ・セミ・バッタ・カマキリ・トンボ・ダンゴムシ・カニ・ザリガニ・カエル・ヤゴ・ドジョウ・イモリ・タニシなど、目に入る昆虫や魚などをみんな捕まえて家に持って帰りました。
しかし、トノサマガエルをバケツいっぱい捕まえて帰ってきた時はさすがに怒られて、近くの川へ放したことを覚えています(笑)。
このころはまだ命の大切さなど分かりもしませんでしたが、この様な小さな命と触れ合うことで、大人になってから命の大切さが分かるようになったのかもしれません。
虫好きは大人になっても衰えず、クワガタの養殖をしていた時期もありました。今はメダカとエビ(レッドビーシュリンプ)を飼っています。
そして学校での私は、いたずらばかりしていて、先生にいつも「落ち着きがない」と言われていました。
野球に目覚める
そんな私ですが、小学校3年生から野球を始めることになりました。地元の地域で、少年野球クラブ「森之腰野球少年団」が出来たのです。これが、私の野球人生(ちょっと大げさかな?)の始まりです。ここから私は、高校生まで野球を続けることになります。
森之腰野球少年団の練習は、毎週日曜日の朝7時から9時まで行われました。1年間皆出席をすると、金属バットをもらえるので、がんばって皆勤を目指したことを覚えています。
野球を教えてくれるのは、近所のお父さんたちでした。
野球において小学生のころは、それほど大きな特徴のある選手ではなく、だいたい2番セカンドというのが定位置でした。
しかし、中学生になるとだんだん足が速くなり、3年生が抜けた2年生後半からのチームでは1番を打つようになり、盗塁では刺された記憶がありません(盗塁は足の速さだけで成功するものではありませんが)。
私はとにかく野球が大好きで、小学校のころから愛読書は「ドカベン」でした。プロ野球も毎日のようにテレビで見て、すきな球団は巨人でした。後楽園球場や神宮球場には、何度か観戦に連れて行ってもらいました。
野球部でつらかったこと
野球は、中学生まではお友達的な部活だったので、特につらいことはありませんでした。唯一つらかったのは、練習中に「水が飲めない」でした。
当時(昭和50年代)は、運動の際に水を飲んではいけない、という教え(?)があり、夏休みの本当に暑い中の練習でも、一滴の水も飲むことができませんでした。
高校での野球
高校へ上がると、野球部の雰囲気は一変しました。まず、上下関係がメチャクチャ厳しい。これはある程度予想はしていたので、それなりに我慢できましたが、その厳しさは予想を遥かに上回っていました。それで辞めていく人もいました。
そして、入学当初の練習です。これもかなりきつかったです。
新入生の野球部入部希望者は40人以上いたと思います。新入生は部活が始まると、とにかく走って走って走らされまくりました。
そんな練習が毎日続くと、新入部員は毎日少しずつ人が減っていきました。上下関係の厳しさも相まって、一ケ月もすると、新入生は半分以下になっていました。
放課後部活が始まると、「今日も減っているなぁ」という実感がありました。
このように野球をするのにつらいことはたくさんありましたが、野球を辞めたいと思ったことは一度もありませんでした。つらいことがあっても、それ以上に友達と一緒に野球をやることが楽しく、野球以外の学校のことや遊びについても、いつも友達がいてくれたので、つらいことなど一瞬で忘れさせてくれたのかもしれません。
今思えば、友達の存在や友情、仲間意識など、野球を通じて学び、それらがあったから色々なものを乗り越えられたと思います。
その様な経験は、後に大人になって仕事を始めてからも大いに役立つことになります。
同じ目標
また、同じ目標を持つことの大切さも、学んでいたようです。
人は複数になると、当然ものの考え方や価値観の違った人間の集まりになります。そのような時、どうやってその集団をまとめるか。その人の生き方を変えるというのは、なかなか難しいことです。しかし、同じ目標に向かわせることはできるのではないのでしょうか。
野球は競技なので、必ず対戦相手がいます。目標としたら、まずそこに勝つ(決して勝利至上主義ではありません)。そこに勝ったら次も勝つ。
(当時の)小学生では多分そのレベルでしょう。
中学生になると中体連があるので、そこでの勝利。
そして高校生になると甲子園。みんな同じ想いで野球に打ち込みます。
同じ目標を持っていると、足を引っ張る人間も現れなくなります。そしてお互いが切磋琢磨できる良い環境へと変わっていきます。こうやって複数の人間の意識がまとまり、同じ方向に歩んで行くようになります。
よくベクトルを合わせると言いますが、正にそれです。
これは会社においても同じことが言えます。会社での目標や行動指針。これは経営理念になると思います。
経営理念という言葉は、学生の時には当然知りませんでした。社会に出て会社経営に携わるようになり、経営理念という言葉が出てきた時、学生時代の野球部の感じを思い出しました。
野球部のあの雰囲気を、経営理念を通じて会社に落とし込めれば、最高だなと思いました。
怒られてばかりの私
話が反れたので、元にもどしましょう。
野球をやることで私のヤンチャぶりが収まることはありませんでした(笑)。小さい時からふざけてばかりいて、学校では相変わらず落ち着きがなく、小学校のころはよく廊下に立たされました(昭和ですね(笑))。
中学にあがっても相変わらず素行が悪くて、毎日のように職員室に呼び出され怒られていました。
私の父はPTAの役員をしていました。そのため、父とはよく比較されました(これは社会人になっても、ずっとつきまとうことになるのですが)。
学校での私の素行の悪さから先生には、「お父さんがあんなに立派なのに、お前はどうしてこうなんだ。お前は名前負けしている」とよく言われました(これも昭和ですね。今こんなこと言ったら問題になってしまいますね(笑))。
そして家では、「あなたは人の上に立つ人(社長になる人)だから、もっとしっかりしなさい!」とここでもいつも怒られていました。
しかし、いつもふざけてばかりで、野球以外の事には真剣に取り組めない私は、どうしても自分が立派な人間、人の前に出られる人間になれるとは思えませんでした。というか、そういうタイプの人間ではないと思っていました。
なので、この親からのプレッシャーがとても嫌で「そんなこと言われてもムリ」といつも思っていました。
ちなみに先生からの言葉には意外と動じませんでした(笑)。
クラスの体育委員長になる
それでも中学3年生の時、クラスの体育委員長になり(他はダメでも、体育だけは得意だったのです!)、秋の体育大会に向けてクラスの練習を取りまとめる役をやりました。多分、クラスをまとめる役は、これが初めてだったと思います。
当時の私は、体育だけは絶対的な自身があったので、得意げに体育委員長をやりました。
練習は授業前の朝練と放課後と、みっちりやりました。誰も脱落することなくみんなついてきてくれたのは、嬉しかったです。個人競技や団体競技の対策もよく考え、絶対に優勝するぞ!という気構えで練習に取り組みました。
そのおかげか?見事私のクラスは優勝することができました。
表彰式で優勝の賞状をもらう役は、私にしてくれました。みんなの前に出るなんてことも、これが初めてだったと思います。
親には、「もっとしっかりしなさい」と怒られてばかりいましたが、その反面「あなたはやればできる子なんだよ」と励まされてもいました。
この時ばかりは、「やればできる!」と思いましたが、それは好きな事だけみたいでした(笑)。
友達
そんな私ですが、友達はたくさん出来ました。
当時野球は、絶対的な人気スポーツで、野球をやる子供はとても多かったです。その様な中にいると、同級生はもちろん、先輩後輩と学年を問わず友達は自然とできていきました。
大人になった今でも、その時の先輩や後輩とは親交があります。
そして、野球部以外の運動部の同級生ともたくさん友達になれました。
学校では怒られてばかりの私でしたが、友達に会える学校は大好きでした(勉強は好きではありませんでしたが)。
そんな私は何と、小学校から高校まで、皆勤賞(無欠席)を達成しました!
野球を続ける、学校を休まないということから、知らず知らずのうちに忍耐力というものが身についたのかもしれません。そして、友達の大切さや仲間意識の共有も学んでいたのかもしれません。
この様に(誰ともではありませんが)友達がたくさんできたことが社会へ出ても生きたのか、とてもたくさんの知り合いができ、先輩などにも結構かわいがってもらっています。
大人の世界では、人脈というのでしょうか。子供のころの経験が社会に出て、人脈づくりに役立っています。
高校受験
私は実家に近い「御殿場南高校(通称:南高)」に行きたいと思っていました。地元では(そんなに立派ではありませんが)それなりの進学校で、ここにいればちょっと頭が良いと思われると思い、南高にあこがれていました。
そして、そこで野球がやりたかったのです(南高はそれほど野球の強い高校ではありませんが)。
中学の成績では、「南高は無理」と担任の先生に言われていましたが、どうしても行きたかったので、無理やり受験をしてしまいました。
あれだけ「受からない!」と言われた南高ですが、奇跡的に何とか合格することができました。
野球をやっていたから頑張れたという訳ではありませんが、「どうしても南高に行きたい!」という強い想いが、私を南高に導いてくれたのかもしれません。
南高生活
南高に入った私の頭の中は、もう野球しかありませんでした。野球部ではすぐに友達ができ、部活をやるのが楽しくて楽しくてたまりませんでした(入学当初はつらかったですが)。
それはイコール、勉強をしなかったということにもつながります。そのため、勉強の成績は悲惨なものでした。
ただでさえ自分の学力のワンランク上(もしかしたらツーランク上)の学校にきてしまっているのに、そこでまるっきり勉強をしなければ成績はほぼ最下位です。
でも野球部に、私とほぼ同じ感じの人間がいました。野球ばかりで勉強は全然ダメ。これが一人きりだと心細くなりますが、もう一人いるとなると変な心強さと連帯感が芽生えてしまいます(笑)。
結局、勉強に対する危機感がないまま楽しく野球に取り組み、3年生の夏まで過ごすことになりました。
小学校から高校まで、とにかく学校生活が楽しかった私には愛校心というものが自然と身についていたようです。高校を卒業して十数年後、南高が創立50周年を迎えることになりました。私は、その50周年に行われる記念事業の実行委員のメンバーに入っていました。
「南高のためなら」ということで、この時はあちこちに足を運んで、50周年記念事業のために活動をしました。
この時も、先輩・後輩と色々な世代の方と交流することができ、改めて人のつながりの大切さを実感しました。
大学受験
そして高校野球が終わると、大学受験が待ち構えています。先ほど申しました様に、勉強をまったくやってこなかった私に進学できる大学などありません。
しかし私は、自分の成績も顧みず「日東駒専」へ行きたいと考えていました。なぜ日東駒専かというと、「ここのどこかなら、とりあえず多少頭が良く見られる」と思ったからです。
高校受験と一緒で、見栄っ張りでまったくの身の程知らずですね。
8月からとりあえず受験勉強を始めた私ですが、当然すぐに成績はアップしません。秋から冬に向けて多少のアップはありましたが、日東駒専には到底たどり着きません。
年が明けて2月に8校ほど受験しましたが、当然受かりませんでした。受からないということはイコール、浪人です。
幸いにも親が浪人することを許してくれたので、予備校に通うことになりました。
予備校では3畳の個室の寮に入りました。とても狭い部屋でしたが、個室ということで落ち着いて勉強をすることができました。
予備校での私は意外と真面目で、ちゃんと勉強をしました。予備校も一日も休みませんでした(小学校からの皆勤出席も13年となりました(笑))。
そのおかげか、希望通り日東駒専の中の専修大学に合格することができました。合格発表で自分の受験番号を発見した時の感激は、今でも忘れません。
でも、高校のころの成績を思うと、これも奇跡だと思います。
大学生活
大学に入ると、硬式の野球はもうやりませんでした。自分の野球の実力が大学で通用しないのは良く分かっていたので、初めからそのつもりはありませんでした。
しかし野球は好きだったので、野球のサークルに入りました。それも2つも。
普通2つも入らないのですが、その2つの新歓コンパに出たところ、2つともハマってしまったので、勢いで2つ入会してしまいました。
リーダーになる
しかし、掛け持ちは長く続きませんでした。最初は当然両方に出ていたのですが、1年半も経過すると、偏りが出てきてしまいました。しかし、これが結果的に良かったです。
その出続けていたサークルで、私はだんだんとリーダー的存在になっていきました。中学3年生の時以来のリーダーです。リーダーになったのは特に志願したわけではなく、先輩に言われた訳でもありませんでした。
こちらのサークルは何となくまとめ役がいなくて、私の中でどことなくヤキモキしていたのです。そんな状態が続いていたら居ても立っても居られなくなり、自分からこうしよう、ああしようと言い出すようになり、気が付くと私がまとめ役になっていました。
この時は、もう中学生のころとは違い、「自分は人の前に出る人間ではない」なんて想いもなくなり、自然とまとめ役ができるようになっていました。
このことをきっかけに、私は子供のころの私を卒業できたような気がします。
サークル内では「代表」という名称で活動し、この代表も後の社会人になってからの私に大いにプラスに働きました。大学での生活はとても楽しく、同級生・先輩・後輩と充実した時間を送ることができました。
たっけん
大学4年生になると、就職活動が始まります。
しかし私は、実家が会社を経営しているので、特に就職活動はありませんでした。
そしたら実家から「宅建の資格をとりなさい」という電話がきました。
「たっけん…、たっけんって何?」という感じでした。
普通に学生をしていた私は宅建という言葉を知りませんでした。ただ、大学生で特に何もすることがない生活を送っていたので、言われるがまま宅建の資格をとることにしました。
宅建の資格を取ると言っても、宅建なんて言葉も知らなかった私なので、自分ひとりでの勉強などできません。どこか教えてくれるところはないかと探していたところ、新聞の広告欄に「日本不動産学院」という宅建を専門に教えてくれるところを見つけました。
4月からそこへ通い始めたのですが、講義の内容がいまいち理解できません。実務経験がないので学んでいることに対するイメージが湧きませんでした。
それでも、毎回講義は録音して、アパートに帰るとテープ起こしをして復習しました。
自分で自分を褒められる
そして我慢強くそこへ半年通い、秋の試験でなんとか一発で合格することができました。
この時ばかりは、勉強をしました。もしかしたら(半年ですけど)予備校の時よりも勉強したかもしれません。
この宅建の勉強だけは、唯一人に誇れることです。
自分で自分を褒められるのは、この時だけかもしれません(笑)。
それだけ一生懸命やりました。
就職
そして大学を卒業です。
就職したのは父の会社ではなく、旧浜北市にある木材製品を取り扱う「株式会社共良」という会社でした。
いきなり自分の会社に入るのではなく、「他人の飯を食う」という、いわゆる修行というやつですね。
それに対し私は、特に異論はありませんでした。当時は修行をするのが当たり前という感覚があったので、すんなり受け入れられました。
ということで、私は浜北へ行くことになりました。学生時代に引き続き、アパートで独り暮らしとなりました。
自分の仕事も分からず就職
実は私、この会社に入るまで、自分がどんな仕事をするのか分かりませんでした。
親に言われるがままに就職をしたので、木材を扱う会社だとは分かりましたが、そこで何をするのかまでは全く分かっていませんでした。
株式会社供良は、製材工場や木材市場から木材製品を仕入れ、大工さんに売るという木材販売(卸売り)の会社でした。社員は役員も含めて6人の会社です。私の仕事はそこで自分のお客様を見つけて木材を販売する「営業」でした。
供良に入社して社長に、「早くお客さんをつかまえられるようにがんばって」と言われ、自分が初めて営業というものをやるのだと知ったほどです。
自分が何をするのかわからないまま就職するなんて、今考えると、信じられないほどいい加減でした(汗)。
修行の始まり
修行は3年間、ということで始まりました。
大学生の時にアルバイトはしたことがあったのですが、本格的に働くのは初めてです。
木材の専門用語が飛び交っても、当然まったく分かりません。しかも寸法がセンチ・メートルではなく、寸・尺です。
ただでさえ言葉が分からいのに、寸法まで分からないので、最初はものすごく苦労しました。電話でもお客様が専門用語で話されるので、電話を取るのが凄くいやでした。
4月に入社した私ですが、いきなりお客様を取ることなどできません。ですので最初は先輩社員さんに同行して、先輩のお客様のところに毎日木材を配達していました。
朝会社をトラックで出発すると、帰りはだいたい夕方になりました。遠いお客様は片道50km以上もありました。
営業という仕事
この営業の仕事。正直私には向いていないな、と感じました。
木材を配達するといっても、ただ木材を置いてくるだけでなく、お客様と色々と話しその中からまた仕事をいただかなければなりません。
まあ、これが俗にいう営業というものなのですが、これが意外と私にはできませんでした。
始めは先輩のお客様のところへ先輩と一緒に行けば良いのですが、その先は自分一人で知らない会社へ訪問して、お客様を獲得しなければならないので、とても不安になりました。
自分にそんなことができるの?と。
人と話す事に対してそれほど抵抗はなかった私ですが、社会に出てみたらそれが思ったほどできなくて、自分の力のなさを痛感すると同時に、自分自身に幻滅してしまいました。
肩に毛?
この仕事をしていて驚いたことがあります。
それは、「肩に毛が生える」ことです。
肩に毛が生えるとはどういうこと?と思われた方もいるかと思います。肩に毛が生える理由は、毎日木材を肩で担ぐからです。
毎日木材を肩で担いでいるので、次第に肩が痛くなりそのうちに肩の皮膚がこすれた様な感じになります。時には切れてうっすら血も出ました。
重いものを毎日肩で担いでいると、この様なことが起こるのです。この瞬間は痛かったですね。
その傷は直ぐには治らないので、しばらく痛さを我慢して仕事をしました。この肩の痛さは、材木屋なら誰でも経験していることで避けては通れないものでした。
しかし、この痛さが理由で仕事を辞めたいとは思いませんでした。これは高校の時の経験があったからだと思います。
野球部では毎日素振りをしていましたが、入学当初はまだ手の皮が軟弱なため、直ぐに手の皮・指の皮がむけてしまいます。
当時の高校野球では、まだバッティング用の手袋などはしていませんでしたので、手のひらや指にテーピングをして傷を覆い、素振りを続けていました。この経験があったからか、肩の皮がむける程度ではそれほどの苦痛にはならず(痛いには痛かったですが)、何とか乗り切ることができました。
その辺の根性だけはあります(昭和ですね(笑))。
肩の皮も手のひらの皮と一緒で、傷がふさがると皮が堅くなります。そうなれば、もう皮がむけるなんてこともありません。
いつの頃からか、肩の痛みもなくなり普通に木材を担げる様になりました。そしてふと肩を見たら、うっすらと毛が生えていました(笑)。
社会人の自覚のない私
また、怒られたことも多々ありました。その中で特に覚えていることが二つあります。
一つは、先輩社員に対してことづけを忘れていたことです。
7月ころだったと思います。お客様から「○○さん(先輩社員)に××を伝えておいて」と言われたのですが、それをすっかり忘れていて、あとになって「あ~そうだ、○○さん。そういえばお客さんが××って言っていましたよ」とかる~く(軽率に)言ってしまったのです。
先輩は、怒りました。言い忘れていたことにもですが、その言い方にとても怒りました。先輩は「いつまでも学生気分でいるな!」と言いたかったのだと思います。
私も社会人となっても、何となくまだ学生のノリでいたようです。これには私も、大反省しました。
社会人としての自覚を、ここで初めて持ったような気がします。
もう一つは、大工さん(お客さん)に聞かれたことにまったく答えられなかったことです。
9月ころのことだったと思います。大工さんのところへ注文の木材を届けたのですが、その大工さんに、「菅沼君、これはいくらになるのかな?」と値段を聞かれたのですが、まったく答えられなかったのです。
そうしたら大工さんに、「何だ、そんなこともわからないのか!」と言われてしまいました。
確かにその通りです。
ものを販売しているのに、販売している人間がその値段を分からないなんて、言語道断です。
基本この商売は掛け売りなので、その場で金銭のやり取りは行われません。やり取りは、納品書1枚のみになります。
私は、製材工場や木材市場で木材を仕入れても値段の確認をせず、そのまま大工さんに収めていたのです。ただの配達員でした。
これでは大工さんとの信頼関係は成り立ちません。
この他にも何かあったと思いますが、とにかくこの二つの出来事は未だに頭のど真ん中に残っています。
この他人に怒られるという経験。これは正に修行の身だからできたことです。こののちに御殿場に帰る私ですが、自分の父の会社に入ると、私のことを面と向かって怒ってくれる人はいませんでした。私を怒るのは、主に父(社長)だけでした。
ここでの他人に怒られるという経験は私にとって糧となりました。この経験がなければ、いつまでも学生気分の抜けない私でいたかもしれません。
学生の様にノリが軽かった私は、この様な出来事を繰り返し社会の厳しさを学び、信頼というものがいかに大切なのか実感し、学生から社会人になっていったのだと思います。社長のことを叱ってくれる人は少ないですから、この時の気持ちは今も大事にしています。
突然訪れた気の迷い
そして半年もすると、色々な意味で仕事に慣れてきます。まだまだ一人では何もできませんが、対応くらいはできるようになりました。
しかし、10月になった時、ここで事件が起こります。
順風満帆に学生生活を送り、家の仕事を継ぐために修行に出た私。
これまで特にそれほど大きな問題には当たったことはなかったのですが、ここで自分の生き方について初めて疑問を持ってしまったのです。
親の仕事を継ぐのが当たり前と思って23年間やってきたのですが、何故かふと「自分の生き方って、これでいいの?」と思ってしまいました。
ほんの一瞬思っただけだったのが、どんどん私の中で大きくなっていきます。ついには家の仕事を継ぐというレールを引かれた自分の人生が嫌になってしまいました。
そんな中訪れた、年末。
長い休みを利用して帰省した私は両親に「家の仕事を継ぐのが嫌になった」と告げました。両親も寝耳に水で、さぞかし驚いたことと思います。
当然翻意するように諭されましたが、「はい」とは言えませんでした。
結論は出ず、正月が明けて仕事が始まるので、私は浜北へ帰りました。
なんの進展もなくただ、だらだらと過ごしていたのですが、両親から「もう修行はいから、御殿場へ帰ってこい」と言われます。
私は、修行が嫌ではなかったので、御殿場に帰ったって何も変わらないと思いましたが、この時はとにかく環境を変えたくて共良さんを辞めさせていただきました。共良の皆様には、本当に悪いことをしたと思います。
御殿場へ戻った私
そして御殿場へ戻った私は、親にうまく言いくるめられてしまったのか、玉穂木材工業へ入社してしまいました。
しかし環境が変わったせいか、あれだけ「実家の仕事をしたくない!」「死にたい!」などと何カ月も考えていた私ですが、気が付けば今まで通りの自分に戻っていました。そこから、玉穂木材工業株式会社の社長への道が始まります。
新米が「部長」
父の会社に入ると、会社での呼び名は「部長」でした。
玉穂木材工業は当時、私の父の3兄弟で会社を運営していました。3兄弟の長男=父が社長、次男が専務、三男が常務でした。
玉穂木材工業は、製材工場・住宅建築・素材生産(山林業)を行っている会社です。
製材工場は専務が担当していました。住宅建築は常務が担当をしていました。
そして社長が会社全体と素材生産を担当し、役員の住み分けができていました。
会社では特に「〇〇部」という部署を設定していませんでしたが、常務の次の役職は「部長」だろうということで、まだ何もできない私ですが、部長ということになりました。
そして私は、専務の下で、製材工場で働くことになりました(後に私の弟も入社することになり、弟は住宅建築へ行きました)。
父の会社に入って真っ先に感じたことは、周りに「甘やかされているなぁ」です。社長の息子ということで、周りにチヤホヤされているということをすごく感じました。
前の会社では、一応預かりもの(お客さん)的な感じでみな接していましたが、そこまで甘やかされている感じはありませんでした。
しかしここにきたら、雰囲気がまったく別物でした。若いなりに、この雰囲気にのまれたらいけないな、と思っていました。
製材工場での私
玉穂木材工業では、桧・杉・米松を主に製材しています。製材工場を取り仕切っているのは、専務です。その専務の下で、しばらく製材工場の仕事をしていました。
私は製材機で製材をするというより、出来た製品の仕分けや配達を主にしていました。
前にいた会社では、木材の製品を取り扱っていましたが、玉穂木材工業は同じ木材でも製材を行っているため、丸太を取り扱います。
この丸太が良く分かりませんでした。どの様に分からないかというと、杉と桧を見分けることができなかったのです。
今となっては目をつむっても(?)杉と桧を見分けられますが、最初はまったく分かりませんでした。
でも、これも慣れですね。杉と桧の丸太を二つ並べて見てもその違いが分からなかったのに、ふと気が付くと分かる様になっていました。
山での仕事
また玉穂木材工業では、素材生産(山林業)も行っていました。そちらにも専属の社員がいましたが、そちらが忙しくなると、時々素材生産を手伝う(山へ行く)ようになりました。
しかし、その回数がだんだんと多くなり、いつのころからかほぼ毎日山に木を伐り出しにいくようになっていました。雨の日は山の仕事ができないので製材工場に行き、晴れたら山に行くという感じでした。
当時は中途半場な状態だと思っていましたが、この経験があとになって生きました。
山で木を伐って、どうやって製材をするのかという一連の流れを学ぶことができたのです。この経験が、私を木材人として成り立たせてくれました。
仕事以外のこと
話は少し遡りますが、玉穂木材工業に入社してすぐに、御殿場の木材協同組合の青年部の方が、勧誘にきました。浜北の時も木材組合の青年部がありました。そちらには参加はさせてもらっていて、同年代の人たちと友達になれました。そんなこともあったので、御殿場木材協同組合の青年部にはすんなり入ることにしました。
消防団
しかし、次に訪れてくる団体が問題でした。
それは、消防団です。
この消防団に、私は絶対に入りたくありませんでした。
その理由は、消防団には早朝訓練があり、毎朝かなり早く起きなければならない。そして、夜な夜な飲み歩いているなどの噂を聞いていたからです。
しかし、御殿場に戻って1年もしたころ、ついに私のところにも勧誘がきてしまいました。
勧誘にきたのは、父の良く知っている人と、木材組合の青年部の先輩です。勧誘が実際私の家にきて分かったことですが、消防団への勧誘は事前に父の耳に入っていたのですが、父は私にその話をしないで「入団する」と勝手に答えていたようでした。
そんな裏の話もあり、消防団への入団は尚更嫌になりましたが、勧誘にきてくれた方の熱意に負けて、「1期2年だけやる」という条件で消防団へ入団することになりました。
ここから、私の消防団活動が始まることになるのですが、まさかトータル19年も消防団活動をするとは、夢にも思っていませんでした。
消防団に入ってみると、さすが地元ということだけあって、知っている人がたくさんいます。近所のお兄さん、中学の時の先輩、同級生など半数近くの人を知っていました。
朝練の毎日
私の入団した年には、数年に一度回ってくる駿東支部査閲大会という大会に出場する年でした。
駿東支部査閲大会とは、御殿場市・小山町・裾野市・長泉町・沼津市・清水町の3市3町の代表が、消防ポンプ車と小型可搬式ポンプを使用して、消火技術を競い合う大会です。
その大会は7月中旬に行われます。その大会に向けて、5月末より週末を除くほぼ毎日、早朝訓練を行います。早朝練習の集合時間は4時半なので、毎日4時起きでした。
しかし、その早朝練習も無欠席で乗り越えました。「やることはやる!」。これだけは、通しました。
消防団に馴染んで行く自分
そんな早朝練習を1ケ月以上も続けていると、だんだんと消防団に馴染んできてしまいます。子供の頃から野球を一緒にやった先輩もいますし、同級生もいます。
そうなると感覚は、野球部の時と一緒です。つらいことはあるけど、仲間といると楽しくなる。ふと気づくと、「2年で辞める」なんて気持ちはどこかに飛んで行ってしまっていました(笑)。
そしてそこから、消防団員として15年間消防団活動を行うことになりました。その間、先ほどの駿東支部査閲大会は3度経験しました。
また、当然火災への出動も何度もありました。真冬の深夜の火災で、放水した水が地面で凍ってしまう極寒の中での消火活動もありましたが、消防団としての使命感で乗り越えられました。
また、20代のまだ物事の判断能力が備わってなかったころ、先輩には色々諭されることもありました。そんな時はいつも、あとになってみれば先輩の言う通り、ということがほとんどで、消防団活動以外のことでも色々体験させてもらいました。
20代から30代へと成長していく過程でこの経験は大きく、私の人間形成にとても大きな影響を与えてくれ、その後の人生に大いに役立ちました。
私の所属していた消防団は、最後に部長という役を行います。その部長も無事1年間まっとうし、消防団を卒業しました。
26歳で入団し、40歳までの15年間の活動でした。
さらに上の消防団に
これで私の消防団生活は終わるはずだったのですが、卒業から12年後に、今度は副分団長・分団長をやって欲しいとの依頼がありました。
副分団長・分団長とは、その地区の消防団の本部で、地区のまとめ役ということになります。
御殿場市の消防団の構成は、まず御殿場市消防団本部があり、そこから各地区(御殿場でいえば、昔の村になります)の分団へと枝分かれします。
そしてその分団に、1部から7部(部の数は、分団によって違います)があります。普通の消防団員は、この部に所属します。私が所属していたのは、第3分団第1部です。
そして今回私に依頼があったのは、第3分団(原里地区)の1部~5分の取りまとめ役です。
御殿場市消防団組織図
ここでは、副分団長を2年、分団長を2年やりました。
消防団では本当に、色々なことを学ばせてもらいました。そして消防団も、学生のころの部活と同じで、「同じ釜の飯を食う」です。
早朝練習や真冬の深夜の火災など、本当につらいことはたくさんありました。でも仲間と過ごすその時間は、そんなことも忘れさせてくれて、かけがえのない時間となりました。
そこでできた絆は絶えることがなく、引退した今でも飲み会を継続しています。
私は自分で言うのも何ですが、結構正直といか真面目なところがあるようで、「ここはこういうものだ」というと、すんなり受け入れられるのかもしれません。
例えば「野球部の練習がきつい」「仕事では修行が当たり前」「消防団では早朝練習や火災出動がある」など、そのどれも「ここはこういうもの」と自分で納得できると、ほとんどつらいと思うことはなく、乗り切れました(修業は途中で辞めてしまいましたが)。
消防団では、仲間・友達の大切さや人のつながりを学ばせてもらいました。
常務取締役に
話を会社のことに戻すと、玉穂木材工業では、私が36歳の時に社長が引退しました。
そして次の社長は、専務が引き継ぐことになりました。さすがに私ではまだ力不足です。ということで、専務が社長、常務が専務、部長(私)が常務、弟が常務ということになりました。
私も常務となったので、そうそう会社を留守(現場に出る)にしてばかりいられません。現場は社員に任せるようにして、製材工場に専念するようになりました。
そして、社長に就任
そして、それから7年後の43歳の時に、ついに社長(代表取締役)となりました。
社長となると会社全体のことを見なければなりません。建築は引き続き専務がみていますが、私の弟(常務)も前面に出る様になり、建築部門を引き続き担当しました。
社長へ就任してみると、やはり緊張感が半端ないです。とにかく就任して2~3ヵ月は、メチャクチャ気持ちが張り詰めていました。
社長の就任は4月でしたが、色々な人が挨拶に訪れてきてくれました。その4月はとにかく、お茶を飲みまくっていたという印象があります(お客様が来ると、お茶がでるので)。
自分の色
社長に就任してすぐに、トステム(現リクシル)の営業の方が、「会社でお祭りをしてみませんか?」という提案をしてくれました。これは当時、ガレージセールと呼ばれていたもので、自分の会社の敷地内でイベントを行うものでした。
イベントの内容は、飲食コーナー・木工工作コーナー・住宅相談コーナー・抽選会などとても盛沢山なものです。
そのイベントは自社の社員だけで行うものでなく、協力業者さんにも手伝ってもらって行うものでした。これはまったく初めてのことで詳細が分からなかったため、トステムの営業の方に色々指導してもらいながら行いました。
このイベントは「玉穂木材ふれあい祭り」と命名して行いました。このふれあい祭りは大ヒットして、(多分)500名以上の来場者があったと思われます。
そしてその中から、住宅建築に結び付く案件をいただくことができました。
[ふれあい祭りの様子]
ふれあい祭りは、私が社長になって特に大きな特色(私の色)を出すことができるものとなりました。
今思うと、社長に就任した時は何か自分の色を出さなければと、少し意気込んでいたようでした。それはそれで良かったのですが、このふれあい祭りは大きなインパクトを与えることができました。
社長業
また社長には「社長業」というものがあることを、初めて知りました。
社長になると、会社での普通の業務の他、それ以外の多岐にわたることに関わらなければならないのです。これが意外と多くて、驚きました。
それらすべてにつき合っていたら、自分の仕事ができない場合もあります。
今では普通に、必要なものと不必要なものを分けて対応できるようになったので、それほど苦に感じませんが、社長就任当初はすべての案件に正直に対応していたので、とても疲れました(笑)。
同友会との出会い
仕事以外で私の人生に大きな影響を与えたのは消防団ですが、それと同等かそれ以上に影響を与えてくれたのが「中小企業家同友会(通称=同友会)」です。
同友会って「どうゆうかい?」ってよく聞かれますが、簡単に言えば「経営者のための学校(勉強会)」です。経済同友会とよく混同されますが、まったくの別物です。
この同友会で、会社経営に対する心構え・考え・取り組み・振る舞いなど、色々なものを叩きこんでもらいました。
私が入会した同友会は、「静岡県中小企業家同友会御殿場支部」です。同友会は全国にあり、全国をまとめる「中小企業家同友会全国協議会(中同協)」が母体となっています。中同協から各県へと組織が分かれ、さらに各市の支部へと組織が下りてきます。
この同友会ですが、正直私はこの会が何をする会かよく分かりませんでした。しかし、当時いとこのお兄さんが楽しそうに同友会をやっていたので、なんとなく入ってしまったという感じでした。
やばいところに来てしまった!
同友会に入会して驚いたのは、みなさん真剣に会社経営について話し合っていることです。会の趣旨をよく理解しなで「何か楽しそう」だから入会した私には、衝撃的でした。
「とんでもないところにきてしまった!」
同友会の私の第一印象です。
私が同友会に入会したのは、29歳の時でした。当時の玉穂木材工業は、社長・専務・常務がまだ最前線でバリバリ仕事をしていました。
私がいくら社長の息子といっても、会社の中ではまだ一社員(周りはそうは見ていなかったと思いますが)といった感じです。会社経営に携わっているという状態ではありませんでした。
そんな私が入会した同友会は、社長や専務といった各社を代表する人たちばかりです。一社員的な私は、まったく話についていけませんでした。
薄っぺらな私
会の中では、講師による講演や会員の発表について、意見や感想を求められることがあります。
入会間もない私は、内容がよく分からないのにかっこつけて、それなりの意見・感想を言ったのですが、その内容の薄っぺらさを先輩会員に見抜かれて、いい意味で辛辣な言葉をかけられました。
私は何も言い返せませんでした。ぐうの音も出ませんでした。完全にやられました。
しかし、やられたと同時に、同友会の奥の深さを実感できた瞬間でもありました。
ここは自分のレベルよりもツーランクいやスリーランク以上の、次元の違う世界だと思いました。例会に行くのが怖くなってしまいましたが、例会が終わると先輩たちもただの人(?)になります。
例会後のお楽しみ
例会は19時から始まるので、仕事が終わるとそのまま例会に出ます。そのため夕食は食べる時間がありません。
例会が終わるのは、だいたい21時半ころになります。そのため、例会が終わると居酒屋に直行です。
居酒屋では、気軽にワイワイとトークができました。
お酒が入るとさらにトークも活発になり、例会の時には言えなかったことなども飛び出したりして、ここでも勉強ができたりしました。また、堅苦しい話ばかりでなく遊びの話なども出て、とても貴重で楽しい時間でした。
しかし、お酒を飲みすぎて、大切な話を忘れてしまったなんてことも何度かありました(笑)。
先輩たちは、例会では恐ろしい(笑)ところもありますが、その他はまったく優しく接してくれ、結構かわいがってくれました。
役員はできない
同友会に入会した時に思ったことが、もう一つありました。
それは、「ここでは将来、絶対に役員はできない」です。
大学生の時に、「人前に出る壁」は乗り越えたのですが、ここはそういうレベルではありません。
会社の社長クラスの人たちが、バリバリと会を運営しています。私が今まで体験してきたものとはまったくの異次元の世界で、私などが前に出る余地などありません。
ここでは一生、平の会員として過ごすつもりでした。
同友会御殿場支部の組織は、支部長を筆頭に副支部長、部会長・委員長という役員構成となっていました。
委員長?
その中で私は、普通の会員として過ごしていましたが、いとこのお兄さんが広報委員長になったので、その委員会の委員に入ることになりました。これが同友会での私の歯車が狂った瞬間かもしれません。
そのお兄さんも数年すると委員長が終わります。そうしたら「次の委員長をやってくれ」ということになってしまいました。
まさか、まさかです!
私などの小物が委員長?です。
当然断りましたが、なんとなく丸め込まれて委員長にさせられてしまいました。33歳の時です。
部会長?
そして、その先も訪れます。翌年、34歳の時です。今度は部会長を、ということです。
支部長には「来年も引き続き、広報委員長をお願いします」と言われていました。
そこへこの部会長の話です。
その話を聞いた時は、正に「青天のへきれき」です。まったく予想だにしていませんでした。
部会長の役目など、私にはとってもできません。
返事は「ハイかイエスか喜んで!」
広報の委員長はやることが決まっているので、何となく前任者と同じことをやっていれば良かったのですが、部会長はそうはいきません。
部会長は前任者と同じことをやっていれば良いということはなく、一年間の勉強テーマを決めて、それに沿って毎月部会を開催しなければなりません。
そんなことを、あの猛者たちの先頭に立って私ができるはずがありません。
これだけは絶対に断らなければいけない!と思いましたが、返事は「ハイかイエスか喜んで」しかない!といった、先輩が後輩に言うお決まりのセリフで、言いくるめられてしまいました。
この部会長ですが、2年間行いました。
もう、必死でした。
分からないことばかりでしたが、副支部長に色々サポートしてもらい、もがき苦しみながらも何とかやりとげました。
自分の立ち位置
その部会長が終わると、今度は組織委員長にさせられました。36歳の時です。もう同友会の役員から抜け出せません。
しかし、そのように同友会の役員を何年も続けてやっていると、さすがに頭の悪い私でも同友会での立ち位置がだんだんと分かってきます。
「御殿場支部の中心に向かっている…」と。
そして、そうこうしているうちに、ついに副支部長にまでなってしまいました。41歳の時です。
そのころには、役員なんて絶対に無理だと思っていた私はもういなくて、普通に役員として同友会活動をしていました。
慣れですね。慣れというのは、人を大きく変えてくれるものかもしれません。
支部長
そしてついに、その日がきてしまいました。47歳の時に、支部長となってしまいました。同友会入会時には、考えられないことでした。
思い返せば、消防団の時もそうです。入団当時は、最後までやるつもりはからっきしなかったのに、終わってみれば部長まで。
そしてそのあと分団長へと。
何か私の人生、私の想像よりもはるか上へいっているような気がします。
同友会の支部長は、4年間行いました。
その間に、御殿場支部は設立30周年を迎えることになり、支部設立30周年記念事業を私が支部長として遂行しました。
その記念事業では、ご縁あってキリンホールディングス代表取締役社長の磯崎功典様をお迎えして記念講演を開催できたのは、大きな思い出です。
同友会には卒業がなく、今も在籍して活動をしています。
その同友会で学んだことは、当然会社経営です。
会社経営といっても色々ありますが、社員教育・経営理念・経営戦略・金融・事業継承等々かなり広範囲にわたります。
経営理念との出会い
その中で印象的なものがあります。それは、経営理念です。これは会社経営には必ず必要で、持っていなければならないものだと思います。
経営理念とは、経営者がどんな想いで会社を経営しているのか、どんな会社にしたいのか、社員とどうしたいのかなど、経営者が会社経営に対する考え方や想いを成文化したものです。
同友会で経営理念を学ぶ時、私はその重要性が自然と自分の中に入ってきました。なぜなら、学生の時野球(部活)をやっていたからです。
野球部に成文化した理念などはありませんでしたが、目標を持つことの大切さや、考えを同じにしてベクトルを合わせることの大切さを学んでいたからです。
経営理念は、41歳の時につくりました。まだ、社長になる前のことですが。
経営理念を作る時には、自分の人生観や価値観などを考慮して作ります。
私は、社会人になって経験してきたことや、今までの人生で大切にしてきたものを考慮して、経営理念を作成しました。
その人生観の中に、高校時代の野球部の経験も当然含まれています。あの遮二無二になって取り組んだ野球。その中で会得した仲間との絆や連帯感。この経験が二十年以上たってから仕事で生かされるとは、思いもしませんでした。
そして出来上がった経営理念が、こちらになります。()内は、経営理念の解釈となります。
一、お客様第一主義
私たちは、お客様とともに歩み、お客様の笑顔を私たちの笑顔とします。
(私たちの願い。それは、お客様の喜びそして幸せです。
私たちは、家づくりの仕事を通じてお客様に幸せになってもらいたい。そしていつも笑顔でいてもらいたい。
お客様の笑顔が、私たち玉穂木材工業株式会社の生きがい、そして喜び・笑顔なのです。)
一、安全
私たちは、住む人が健康で安心・安全な暮らしを送れる家づくりを目指します。
(家づくりにおいて、「安心・安全」は当たり前のことです。しかい、当たり前のことを当たり前にする。これが一番大切なことなのです。
ほとんどの人にとって、家は一生で一度の高い買い物です。これから何十年と大切な家族と暮らすマイホーム。
そこには「安心と安全」がなければ幸せな暮らしは送れません。
住む人が健康で安心・安全な暮らしを送れる家づくりを目指します。)
一、切磋琢磨
私たちは、お客様の夢の実現のため毎日一歩上を目指し、お互いに磨き合います。
(私たちは、お客様の夢を実現するために努力を惜しみません。
毎日始業から終業まで、だらだらとした時間は過ごしません。
今日より明日、明日より明後日と必ず進歩している自分(人間)でいられるように、社員同士・協力会社を通じて、良きパートナーとして切磋琢磨していきます。)
一、信頼
私たちは、社会から認められる人間となり信頼される会社となるために、誠実な人間性と確かな技術を習得します。
(仕事をしていく上で大切なものは、信頼です。信頼がなければ何も始まりません。
その信頼を得るためにはまず、会社を構成する個人が信頼される人間でなければなりません。
そのために、社員各々が誠実な人間性を備えます。
その誠実な人間の集まりで、信頼される会社、玉穂木材工業株式会社となります。)
ここには、私の会社経営への想いが凝縮されています。そして、これは私がこの会社をどうしたいのか、ということを社外に宣言するものにもなっています。
経営理念には、社会人となり仕事を通じて学んだことが盛り込まれていますが、先ほどから何回も申しています学生時代(野球)の経験、消防団での経験、同友会での経験なども大きく関わっています。
それらの経験がなければ、経営理念を作ることはできなかったかもしれません。
社員との共有
また経営理念は、当然社員と共有しなければなりません。
経営理念を作成した時は、社内で発表会を行いました。私がどういった想いでこの経営理念を作成したのか、ただ読み上げるだけでなく理念ができるまでの過程も含めて説明をしました。
この経営理念は、毎日朝礼で唱和しています。
そのおかげか、特に経営理念に背いた行動をとる社員も出ず、みなさん同じ目標に向かって邁進してくれています。
その他の学び
また同友会では、会社経営の他に、人生の勉強もさせていただきました(今も勉強中です)。これも同友会ならではのことです。
同友会のメンバーは年齢を問わず、広範囲にわたります。
普段の仕事関連の付き合いとは、また別のものがあり、とても刺激になります。そのような仲間とふれあうことで、会社経営や人生について大いに学ぶことができました。
あのちゃらんぽらんな私が今、こうやって社長ができているのも、同友会で教えられ鍛えられ、そして学んでこれたからだと思います。
そして、人脈。
この仲間とのふれあいから人のつながりができ、今では私にとって大きな財産となっています。
この人脈は、同友会だけではありません。子供のころからやっていた野球や学校生活も大きく影響していると思います。
そして、消防団もしかりです。
子どものころはヤンチャで、学校では怒られてばかりいた私ですが、色々な事を体験させていただいたおかげで、なんとか今があるのかなと思います。
自分でもよくこんなにまじめ(?)な人間になったなぁ、なんて思っています(笑)。
これも色々な人たちと出会えたからです。
すべての出会いに、感謝です。
商店街活動に参加
最後に、商店街活動の話をさせていただきます。
私の会社は、御殿場市の茱萸沢(ぐみさわ)にあります。
しかし、茱萸沢には商店街はありません。
それなら何故商店街活動?と思われるかもしれませんが、私の自宅は森之腰(住所は川島田)になります。
その森之腰には、古くから「森之腰商店街」があります。その商店街活動に参加させてもらいました。
活動は主に、青年部の活動です。
しかし、活動に参加し始めたのは少し遅く、30代半ばからです。少し遅かったのは、先ほど申しましたように、私の会社が茱萸沢にあるということと、業種が商業ではなく工業(建設業)だったからかもしれません。
地元で消防団をやっていたので、商店街の青年部活動のことは知っていましたが、特に関わることもなかったので、そちらの活動に参加することはありませんでした。
しかし、ある先輩が声を掛けてくれて、それがきっかけとなり商店街活動も行うようになりました。
会に参加してみると、ここは今まで参加してきた会とは別物で、商業(商店街)独特のものがありました。
商店街活動での気付き
商店街青年部の活動は、主に商店街が行うイベントの企画・運営です。
商店街では古くからポイント制度を設けていて、そのポイントを絡めてのイベントが年2回行われていました。
またクリスマスには、「サンタとトナカイがケーキをお届け」というイベントも行っていました。
クリスマスセール期間中に、商店街でケーキを買ってくれたお客様の希望者に、青年部の人間がサンとトナカイにふんして、自宅にケーキをお届けするというものです。これも人気のイベントでした。
そして一番大きなイベントは、御殿場の夏祭りです。
御殿場の夏祭りは、一本の主要道路を通行止めにしての歩行者天国です。
この歩行者天国。普通はろ店がひしめき合うように出店するのですが、森之腰商店街ではそのろ店を出店させず、自分たちでお店をそろえたり、イベントを開催したりしていました。
この様に商店街青年部では、年間数々のイベントを行っていましたが、その仕切り役が青年部長となります。
その仕切り役の青年部長を、私もやらせていただきました。しかも2年も(普通1年なのですが)。
これは特に私だから、ということはなく、単に年齢順という役廻りでした。
地域への意識
しかしここで、「地域」というものを意識するようになりました。
これまでの普段の仕事では、あまり地域というものを意識することはありませんでした。
ところがここでは、商業という目線から地域を見ていて、工業(建設業)としての見方とはまた違ったものがありました。
地域に根差した活動(地域貢献活動)。
地域活性化。
お客様の意識。
人の流れ。
販売促進。
そのどれをとっても、いままでの仕事ではあまり実感できなかったことです。
これは、大きな発見です。
御殿場生まれの御殿場育ちの私。それなりに御殿場のことは好きでしたが、この商店街活動を通じて更に幅広く御殿場のことを知ることができ、更に自分が生まれ育ったこの地域が好きになりました。
御殿場産木材=「ごてんばっ木」の活用
その商店街活動を通じて今、御殿場産木材「ごてんばっ木」の活用に力を入れています。
「ごてんばっ木」とは、御殿場市の木育宣言の中から生まれた御殿場産木材の愛称です。
御殿場市はこのごてんばっ木を通じて、子供からお年寄りまですべての世代で御殿場の木に親しんでもらい、心豊か生活を送れるよう働きかけています。
私も、自分の会社の産業でもある木材を通じて、ぜひ御殿場市民のみなさまの心豊かな生活の実現に貢献したいと考えました。
御殿場で育った桧は、年輪の間隔が狭く、良質な木に育ちます。御殿場の木が良質に育つには、それなりの理由があります。
御殿場の気候は、夏は湿気が多くそして冬はとても寒いです。気象条件としては、厳しい地域と言えます。
木は、育成の段階で厳しい環境下にある方が、耐久性のある強いものになる傾向があります。
そのため、なんのストレスもなく育つ外国産木材より、暑さ寒さ湿気等自然環境の厳しい御殿場で育った木の方が耐久性に富んだ木となるのです。
今現在、御殿場の木は主に住宅建築に使われていますが、近年、家具や小物にも使われるようになりました。
しかし残念なことに、市民のみなさまにはそのことがあまり知られていません。
それは、とてももったいないことです。せっかく地元に良質の木があるのに、それを使わずわざわざよその地域から運んできてしまっています。また、外国産の木を選択してしまっている現実もあります。
Co2削減
このことは、Co2削減の観点から見ても見直さなければならないことだと思います。
木は山で伐採されると、トラックに積まれいたる所へ運搬されます。
その運搬先は国内各地となりますが、海外への輸出または海外からの輸入ということにもなります。
そこでのトラックのCo2排出量は、莫大なものになります。ましてや海外からの場合は、トラックに加え船もということになります。
しかし、地元の山の木を使うということは、それだけで運搬の距離を大幅に減らすことができ、Co2排出も確実に削減すことができます。
それはサスティナブルな社会の実現につながります。
地元でそろうものをわざわざ遠くから持ってくるということは、それだけで無駄が生じ、地球環境にも良くありません。
森林整備
また、地元の木を使うということは、森林整備にもつながるので、地元の山が整備され良質の山林へとなります。
良質の山林は「天然のダム」と呼ばれ、水源涵養(すいげんかんよう)機能により雨水をしっかりと山に吸収し、ダムとしての機能を発揮してくれます。
これはすなわち、水害対策にもなるのです。
日本の森林の環境保全機能は約70兆円と呼ばれています。森林にはこれだけの機能があります。
したがって、無理に巨額の建設費の必要なダムを作るのではなく、しっかりとした計画に基づく森林整備をして、森林の持つ自然のダムとしての機能をさらに向上させれば、必要以上のコストをかけずに水害の対策が出来ます。
そして、二酸化炭素を吸収する木の育成にもつながります。
地産地消
さらに、もう一つ。地産地消です。
今、地産地消があちこちで叫ばれています。一番目にするのは、食品でしょうか。
よく「○○産」とか「生産者△△」と出ています。
これは今では当たり前になりましたが、木材については産地を気にされることはまずありません。
あなたは、今自分が住んでいる家が、どこからきた木でできているかご存じですか?
家を建てる時、自分の家の木が何なのか、どこからきているのか、気にする人はほとんどいません。
なので、今建てられている家(木造住宅の場合)は、色々なところから寄せ集められた木でできているのです。
これを少しでも同じ地域=地元材にすれば、材の質も安定しSDGsにもつながり地元の産業も潤います。
それはイコール、自分の住む街の発展にもつながります。
このようなことから、木材の地産地消は大切なのです。
地域(御殿場)のために
私は、この「ごてんばっ木」をなんとか普及させ、御殿場市民のみなさまにその良さと目的を知ってもらえるように努めたいと考えています。
そしてそれが、私の大好きな御殿場の発展につながることだからと思うからです。
私はこれまで、上記のような人生を歩んできました(まだ折り返し地点くらいですが)。その中で、人のつながりの大切さ、仲間の大切さ、友情、信頼、努力、忍耐、感謝などなど、数えきれないほど色々学ばせてもらいました。
そのどれ一つ欠けても、今の自分はありません。
一つでも欠けていたら、ちゃらんぽらんな私のままだったでしょう。
この「社長の履歴書」を書くとによって、改めて自分というものを見つめ直すことができました。
そして、自分が大切にしてきたものも、再認識できました。
そのことを忘れず、玉穂木材工業株式会社はこれからも、地域密着型企業として地域のみなさまと共に歩み、そして地域の皆様に必要とされる会社であり続けたいと思っております。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
今後とも、よろしくお願いいたします。